研究目的
「種特異的なゲノム配列が、いかにして種特異的な遺伝子発現を脳内で起こし、それがどのようにして種特異的学習行動へと表出されるのか?」
各々の動物種がもつ種特異的行動が進化の過程でどのような分子基盤を背景に形成されてきたのか?
本研究では、種特異的行動発現に関わる分子基盤の抽出と実験によるゲノムレベルと行動レベルの両面からの検証を行う。
研究戦略として、鳴禽類ソングバードの囀(さえず)り行動とその発声パターンを生成する脳内神経回路に焦点を据える。ソングバードの囀り行動は、囀り学習・生成に特化した神経回路(ソングシステム)によって可能となる。この神経回路はソングバードの全ての種で保存されている。しかし、そこから生成される囀り行動は、種特異的な発声パターン(時系列構造、発声持続時間、音素数など)をもっている。同じようにワイアーリングしているように見える神経回路から種特異的な発声パターンとして異なるアウトプットが可能なのである。
ゲノム上の遺伝情報による遺伝子発現機序が種特異的な神経回路の性質を決めていると考えられる。この種特異的な行動表現型とそれを可能としている神経分子基盤の機能との進化を検証していく。
研究の背景
動物行動は、個体が表出する動的な生体情報として、生命現象を理解する上で欠かせない研究対象である。また、行動形成は形態形成と並び、自然界における生物多様性をつくる大きな要因でもある。「動物がもつ種特異的行動はどのように進化し、生成されているのか?」この「行動の進化」を巡る問いは1960年代より確立されたEthology(動物行動学)の中心命題の一つでもある。
動物行動学研究の初期から注目されてきた動物たちとその行動(例えば、ハイイロガンの刷り込み行動、コウモリ類の超音波エコロケーションなど)は、生物多様性・種特異性・生得的行動プログラムを考える上で示唆に富むものであった。しかし、動物行動の生成原理を十分に解明してきたとは言い難い。これは遺伝・ゲノム情報の決定的な欠落、およびin vivo遺伝子改変技術の不備により、記述的な研究に終始せざる得なったためである。また逆に、従来から実験動物・分子生物学モデル動物として扱われてきた動物種は遺伝子・ゲノム情報、遺伝子改変技術が整備されている一方で、考察できる動物行動様式は、モデル動物が表出することができる範囲に限らざるを得ない。生物が生成する多様な行動様式の理解は、細胞生物学で力を発揮してきたモデル動物の研究だけで完結するものではない。事実、本研究提案で対象とする「学習によって獲得される発声行動(Learned vocalization)」は、非常に限られた動物(4種の哺乳類、ヒト・クジラ類・コウモリ類・ゾウ類と3種の鳥類、オウム目・ハチドリ目・スズメ目鳴禽類ソングバード)のみで確認されている。チンパンジーやアカゲザルでさえも、その発声行動は生得的な発声に頼っており学習によって獲得していないことが明らかにされている。その一方で、世界中に3000種以上存在するといわれるソングバードが種特異的な多様な発声パターンをもった行動を生成・進化させている。
研究目標: 何を明らかにしようとするのか
本研究は「行動の進化」を中心課題に据えている。神経科学・行動学研究において「進化」学的な考えを取り入れることがますます重要になってくる。事実、発生学・生態学といった学術分野が、進化学的観点を取り入れ、Evolutionary Development (Evo-Devo:進化発生学)・Evolutionary Ecology (Evo-Eco: 進化生態学)というさらなる新学術領域へと発展を遂げている。そのなかで、行動学(Ethology)は十分にその可能性をもちながら、「行動がいかなるゲノム情報を基盤として進化してきたか?」という問いにまだまだ正面から向き合えずにいる。
これには複合的な問題が存在している。動物行動そのものが一般的に単一の神経回路によって生成されていない点も問題を難しくしている。また、既存のモデル動物(線虫・ショウジョウバエ・マウス・ラットなど)のみでは進化系統上であまりに遠い種間の行動の進化を考察することを強いることになる。鳴禽類ソングバードの囀り行動に着目した場合、これらの問題は容易に解決できる。囀り行動生成のための特異的な神経回路をもち、近縁種間でありながら種特異的な発声パターンを生成しているためである。
動物がどのようにして種特異的行動を進化してきたのか?
ヒトの進化も含め、動物の進化を考察する際に「行動の進化」は決して無視できるものではない。行動の進化となる分子基盤・ゲノム情報をいかに抽出し、検証していくのか。そのブレイクスルーを目指す研究を目指したい。